The Long Interview
「私の尊敬する人そしてライバル」
第3回〜飯島篤氏


「飯島さん」「会長さん」と親しまれ、舞台写真の分野で特にバレエの写真のレベルと地位を引き上げたパイオニアとも言うべき人物が、今回インタビューする飯島篤(いいじま あつし)氏です。
現在も(株)エー・アイ(Atushi IIjimaの略)の代表として現役で活躍されています。

私自身も1977年にテス飯島舞台写真(現 スタッフ・テス株式会社)に入社し1993年に退社するまで、公私ともにお世話になりました。カメラマンとしての動き方や考え方などの基礎と精神を教授されたものの一人として敬愛してやみません。撮影の合間や帰社するまでの電車などで漏れ聞いた話を改めてインタビューし皆さんにお伝えします。

ダンス・スクエア 鈴木紳司

飯島篤氏
舞台との関わり

ダンス・スクエア:最初に舞台と関わったのが、高校時代の演劇ですか?
飯島篤さん:天理高校の2部ですから…昭和29年かな。

★演劇を始めたのは奥様(飯島八重子夫人)が演劇部員としていらしたから?
_(笑)いや、同級生が次期部長で彼から文化祭の装置を頼まれたの。で、もともと芝居やりたかったし。それで、のっけから役をもらった“曹寓”という人の作品で、当時話題になっていた新劇の古典ですね。タイトルは「雷雨」。中国の王権時代の崩壊を意識した作品。僕はそれのちょい役で出た。それが舞台に立った初めてですね。


★役者としての主役デビューを経て、奥さんとの出会いは?
_なかなか接触がなかったんですが、彼女が登場したのは3年生の後半ですね。誘ったんです。役者としてはいいと思って、主宰者の目で見てね(笑)

★本当ですか?下心はなかったんですね。(爆)その時すでに演出に関わっていたんですか?
_演出は、その秋ですね。九州大の教授で林こくとう、僕はジャン・コクトーと呼んでるんだけど(笑)、「春雷」というのをテアトロか何かで読んで、それを振り付けたわけです。それともうひとつ、NHKか何かのラジオの放送劇、それを気に入っちゃってね。

山本安英さんとの出会い

★一気に話が飛びますが週刊誌「女性自身」のカメラマン時代のお話を......。
_その前に、山本安英さんの出会いがある。山本さんの出演した「ベルナルド・アルバ」という、ガルシア・ロルカの作品を観に行きました。大阪の毎日ホールです。そこでたまたまカメラを持って行ったから、楽屋口で待っていた。舞台写真じゃなくて、終わったあと待っていて。

★ファンとして感激したから、写真を撮らせてくださいということですね?その時の山本さんの反応は?
_「これが役者だ!」とサービス精神に感動しました。疲れ切っているのに、いろいろ気配りしてくれて。背景はこれでいいの?とか......。

★ほぉ、もちろん面識はまったくないんですよね?
_ないですよ。(笑)

★それは大学の時?
_大学4年生の時かな。そういう出会いがあって、しばらくして「山本安英の会」が立ち上がって、そこから僕が撮影に入った。「山本安英の会」になってからは、僕が90%撮ってるんじゃないかな。



★「夕鶴」という作品のすごさは?
_人が鶴を演じるわけです。これが実に、抵抗なく入っていける。(役者が)お芝居をやってますよ、(観客として)観てますよ、という関係じゃなくて、そこに鶴がいる。本当に自然に感じられる。すごい人でした山本安英さんは!写真に対しても、まわりや仲間に対しても厳しい人だったけれどね。

★会長の写真には、どんなことをおっしゃってましたか?
_「構えすぎる」と。「良い写真を撮ろう」とか、あるいは「つまんないけど撮ってあげよう」とか、「そういったカメラマンの姿勢はだめだ」と。

★「夕鶴」の1000回公演に(撮影して欲しいと)お呼びがかかったのは、福島県でしたっけ?(1984.7.24「夕鶴」1000回記念公演)
_福島市民会館かなぁ…。

★1000回をぜひ撮ってほしいというのは、カメラマンにとって非常に名誉ですよね。
_名誉であり、怖かったですよね。プレッシャーがかかるから(笑)期待に応えなきゃいけない、と


女性自身記者時代 美空ひばりさんの思い出

★週刊誌“女性自身”では、いろいろな有名人と関わったそうですね。その中で美空ひばりさんとは?
_当時は芸能誌じゃなくて、週刊誌だった。週刊朝日みたいなね。まず出版社の中で、ひばりを特集するかしないかという論議があった。組んでいたライターがひばりを認めてる人だったから、やりたいと言う。ひばりなんかやらないというのを編集部で説得するのに半年以上かかったけど、購買数を上げたいということで、結局やることになった。

★その頃、ひばりさんの映画や歌は何がヒットしていましたか?
_古賀政男の曲とかね。ひばりさんのまさしく全盛期です。それでたしか、小林旭と離婚した時かな。楽屋か舞台袖か覚えてないけど偶然、彼女が目頭を押さえたような写真を撮った。

★泣いているように見えた衝撃写真なわけですね。そのころ、双生児とも言われるお母さんは一緒でしたか?
_本当に双生児、双子。邪魔で邪魔で、困ったよ(笑)撮ってる横でいろいろなことを言うわけですよ。ひばりさん、じゃなくて、お嬢と呼ばなきゃいけないわよ!とかね。そのうちにそのお母さんにも気に入られたんだけど。ところが3回目くらいから「いたく気に入らない」ということになってくる。

★その写真の掲載がきっかけですね?
_スターですからね。「こんなの使うんじゃない」と。こちらが意図したわけではないけど、カチンときたみたい。


★そして黒い噂の事件があった?
_ひばりさんが桐生でやった時に、雪が降ってたの。真正面にカメラ構えてたら、マスクした彼女が出てきて、そのうしろに黒い軍団がずらっといたわけ。取り仕切ってる人たち、暴力団…それをばっちり撮ったわけよ。それで僕も当時は鼻息が荒いから、(掲載後も)謝らなかった。弁解もしなかった。
★それはスクープだったんですか?

_スクープじゃないでしょ。それまでは、みんなが遠慮して撮らなかっただけで。でも結果として話題になったから......。一般誌に出たのは初めてだったんだろうね。
★業界の暗黙の了解だった?
_カメラマンとしては、誰もが信頼されたいからね。優しいカメラマンって。ところが半年くらいの間に、続けて何回かカチンと来るものを出したわけだから。それで、飯島を下ろしてくれ、そうでないと“女性自身”には協力しない、と圧力がかかった。でもそれは当たり前よ。僕もそれなりに職業意識持ってるから「(編集部に)迷惑かけたな」と撤退するのが当然だと思った。

独立 ISP舞台写真研究所

★それで退社されたわけですね。ISP舞台写真研究所を設立されたのはいつですか?
_女性自身をやめたのがオリンピックの前ですから、東京オリンピックの前年の1963年に立ち上げた。


★その頃は芝居の写真がメインなんですよね?
_8割は芝居で、あとの2割は音楽でしたね。オーケストラの場合、指揮者とピアノをどう撮るかがその頃の重要なテーマだった。それとシンバルを含めて、ワンチャンスしかないもの、それを外したら全景写真じゃないと考えていた。


★スタッフテス株式会社に発展し、時代はかなり飛びます。1976年にISO感度400のフイルムが出て、飛躍的に舞台写真が進化しました。その時の思い出は?
_迷惑だと思ったね(笑)こっちはISO感度100のフィルムで、シャッタースピード30分の1でやってたんだから。

★30分の1 でジャンプを止めたのは今では伝説です。ひとつの演奏会を撮影する場合のカラーと白黒(トライX:ISO400)の比率は?
_6対4くらいですね。カラーが4割。最初は本当に9対1くらいだった。

★それが次第に増えていったのは、カラーの方が評判がよかったからですか?
_カラーはピントが多少悪くても、良いふうに見えるんです。白黒ははっきりわかっちゃう。カラーは色があるからごまかせちゃう。

★耳にいたいですね(爆)

松山樹子先生の思い出

★松山バレエ団の松山樹子先生との出会いは?
_ 偶然なんです。日本青少年文化センターというところで、僕がオフィシャルカメラマンをやっていた。狂言、マイム、大道芸なんかを、青少年に児童会館などで見せてまわっていたんです。それでたまたまバレエを取り上げた。そのプログラムの中で、渋谷公会堂で松山バレエ団が「シンデレラ」をやり、それを撮りに行ったわけ。そこが初めての出会いです。

★その時は誰がシンデレラ役だったんですか?
_加茂律子さんだったかなぁ…ちょっと記憶があやしいですけどね。

★その時は樹子先生は踊っていなかった?
_踊ってないです。でも一幕の家庭教師の場面とか、面白かったなぁ。何が面白いって、とにかくスリリング。ストーリーを知っているから「こう動くだろう」という予想が見事に裏切られるわけ。それが悔しいと同時に楽しい。シャッターチャンスはそれが目の前を通り過ぎた瞬間に解る。「あ、これだ!」って、だから撮れていない。でもきれいだなと思った。体操やスポーツの競技みたいにね、この女性は大変なことやるなーって。でもまだどこを撮っていいのかというのが、まるでわからなかった。

★能や歌舞伎の形(カタ)や見栄を切るのとはまるで違う体験だったわけですね。
_物語だからストーリーの山場の伏線っていうのは絶対どこかにあるわけですよ。それがあるから、芝居が際立ってくる。それがあるから奥行きのある演技なり、展開になる。それが、「いよいよ来るな」となってから無我夢中で機関銃のように撮る。そうするとお客さんからクレームが来る。

★もちろん本番中なわけですね?
_ そうですよ、当時はシャッター音も大きいですから。それで、フロント(ななめ前方の照明室)へあがった。そこで箕輪初夫さんとの出会いがあった。

★箕輪先生がそこで見ていらしたんですか?
_ そう。それで、「今だー!」とか、「また外した!」とかね(笑)

★箕輪先生からのアドバイスがあったとは知りませんでした。
_それはもう撮影になりませんよ、ものすごいプレッシャーで(笑)うしろから言われる、しかも専門家から言われるんだから。(笑)


★苦労して撮った結果、主宰者の樹子先生から「面白い写真を撮るわね」と言われたそうですが?
_そう。決まり切った写真でなくて、意外性のある写真を撮るわね、ということでしょうね。

★評価された、と受け取りましたか?
_ 評価というよりは、怖い人だなーと思った。あれほどすばりとおっしゃる方はいない。そうしたら、すぐに次の仕事が回ってきた。


★直接、松山バレエ団からの依頼ですか?
_ そう。そのあと一ヶ月かそのくらいの期間を置いて、電話がかかってきた。『今度「ベトナムの少女」をやるから撮ってみる?』と。

★「ベトナムの少女」ですか?どうしても「白毛女」のイメージが浮かんでくるんですが…。
_いや、「ベトナムの少女」は非常に牧歌的でいい作品でしたよ。体制に対する、権力者に対するものだけど、作品自体はメランコリックでしたよ。ベトナム戦争とは全然違う。でも繋がってるってことに、あとで気がつきますけどね。


★その後に「白毛女」ですね?
_ 松山バレエ団が中国に行く時です。第一回の訪中ではないけれど、1970年ですね。彼女が世界学生平和友好祭で日本代表としてどこかへ行った帰りに中国でオペラを見て、それで感動して作った。バレエ化をしたのを持ち込んだのが1960年前後だった。


★樹子先生は、どんなダンサーでしたか?
_いわゆる、私はバレリーナよ、というダンサーではないんです。やっぱり演劇の演出家との交流がすごくあった人だから。表現なんです。きれいに踊るということだけでなく、何を踊るか、この作品はどういう作品なのかということを追及する。
あとはモブシーン、群衆ですね。それを彼女はナチュラルに、実存主義的にやる。今の蜷川さんもそうだけど、モブシーンの演出は最高に上手い人だと思う。だから主役だけじゃないんですよ。まわりにいろいろあって、それで主役が浮き上がってくる。そういうことのできる方だから、演出家としては凄い人だと思う。

たとえばオデットなんていうのは伝説でしょ、人間が白鳥になったなんて。だけど表現されるものはどうあるべきか、というのを、彼女はきちっと組み立てようとする。一見、茫漠とした、ラフなように見えるけれど、非常に哲学的、美学的なものです。だから僕が彼女から受けた影響というのは、踊りだけではなくて、人生観そのものについてです。

森下洋子さんとの出会い

★その後、森下洋子さんとの出会いがあるわけですね。
_橘バレエ学校に小学生の時に新幹線で通っていたというのは、あとから知ったんだけどね。被写体として気になる子だった。今日は洋子ちゃんいるなーと、楽しみになる。いい写真が撮れるぞ、とわくわくする。もちろんまだ少女でしたけどね。そのころはいいダンサーがたくさんいた。大原永子さん、川口ゆり子さん…。ライバルに恵まれていましたね。

★森下洋子写真集に『写欲させられる』という言葉がありましたね?(「森下洋子写真集」 ゆまにて出版)
_ まさにそう。ふと気がつくと、彼女ばっかり撮ってる。あぁ、いかんなーと反省するんだけどね。

★洋子さんが橘バレエ団を辞めて、松山に移られた時は?
_ 橘はもちろん良い環境でした。でも松山には哲太郎さんという素晴らしい同世代のダンサーがいました。当時、「コッペリア」か「白毛女」の時だったかなぁ。打ち合わせが終わって、何気なく稽古場の2階に上がったら、洋子さんがひとりで一生懸命練習をやってた。それを見て本当に、金縛りにあったようでした。夕暮れで太陽が洋子さんの後ろから当たっていて…まるで時間が止まったようで正視するのもはばかられるようでした。

★ヴァルナコンクールの時はいかがでしたか?
_ その年の東京新聞コンクールで、ロビーでそのことを大声で喋ってしまった。絶対洋子さんが賞を獲るんだーっと。俺は行くぜ、と。それでまわりの関係者から顰蹙を買ってね(笑)そのころ僕はお金がなかったんです。ナンシー(演劇祭)に行っていて、日本に戻らずそのままイタリアへ渡った。

カメラマンとして

★では、カメラマンとして一番大切なことは何でしょう?
_まずは、絶対に黒子っていう気持ちを持たなければいけない。撮ってやってるんだ、じゃない。いただいている、撮りたくなる状況を向こうから提示されてるんだ、ということです。楽な仕事なんてする必要ない。きれいに撮ってやろうなんておこがましいよ 劇場に入って、移動とかポジションをとる時間を含めて、劇場に入った瞬間から、何を感じるかっていうこと。それが、飯島篤流。噛みついていくという、闘争心がなければ。。喰うか喰われるかだよ。結果的には、彼女なり、その作品なりが鮮やかに蘇ってくるはずだから。こういう考え方なんです。

★逆に相手に喰われた、勝負に負けた状況っていうのは、どういうものですか?
_ ワンショットが、わからなくなった時。納得できなかった時。消化不良で、そういえば舞台もつまらなかったなぁと、自分では自己弁護する時かな(笑)

★喰った時の感覚というのは?
_ はかない期待でしょうね。というのは、現像するまでわからないわけだから(笑)

★ネガですからね。現像されて戻ってくるまで中1日かかる。シャッターを押した確信が、どんどん写ってないんじゃないかという不安に変わっていく?

_ そう。でも感動するのは、発表会の方がむしろ圧倒的に多い 。小さい子供でも本当に、本番中でも花束をあげたくなることがよくあるんですよ。。上手い下手じゃないんですね。それはプロのカメラマンとしていかがなものかと、反論を受けるかもしれませんけれど。

★今のカメラマンは、デジタルになって恵まれていると思いますか?昔の限定された状況を知らないわけですが。
_はっきり言って不幸だと思いますよ。だから逆に勝ち残るのは少ないと思う。よかったな、と本当に納得できる人は少ないと思いますよ。全部、あてがいぶちでやっている。99%用意された環境でやってる。
だから僕は、カメラマンとして自分を鍛えるには、テレビや映画など、そのカメラワークが納得できるかどうか、それで自分の目を磨きなさいよ、と言う。スチールカメラマンとしてまったく同じ立場、空気感があるはずだから。(自分が描いた絵コンテの)予定通りにしようとすると、だいたい絵はがきやカタログ雑誌みたいになっちゃう。だから勝負をしかける、勝負師だと思う。その舞台なりの、しかないわけ。

★会長が撮影されている姿を見ると、子供のように夢中になって楽しんでる。でもどこか冷静、という印象です。
_そりゃ、努力はしましたよ(笑)ときどき調子に乗りすぎる。あの子かわいいなぁ、いや冷静にならなきゃダメだとか自問自答をすることもありました(笑)呼吸を全部同じにするところまで追い込む努力はしてきたね。簡単にはいかないんだけどね。でも集中と弛緩なんですよ。弛緩…リラックスのことね。これを巧みにコントロールできるかっていうのは、水面下では大事なことだと思う。そうすると感動が連続するようになる。

★心の余裕っていうことですか?
_そう、遊び心と言ってもいい。だからあんまり几帳面に、欲張ってあれも撮ろうこれも撮ろうとしてはだめ。


★思えば、白黒全盛の時代からカラーになって、カラーがISO400になることによって、今までにできなかったことができるようになった。会長は 時代時代に間違いなく対応してきた、常に新しもの好きでしたね?(笑)
_そうですよ。正直言って、僕の人生は魑魅魍魎で千々乱れてる、ふたつが同居してますから。新しいもの、新機軸にトライしてみようと思う。でもあてずっぽ(笑)90%駄目なことを自覚しながらもトライする。

★そこが凄い!失敗してもめげませんよね?
_いや、めげますよ。でもすぐ忘れるようにしている(笑)

エディター:砂塚洋美


The Long Interview
第1回〜
夏山周久氏
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