未国 『稀人』『KUROKAMI★BALLET -禍-』

2008.11.27〜30 吉祥寺シアター

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Mikuni

第一部 『稀人』
振付:前田新奈
平田沙織

吉田悠樹彦の
Driving into Eternity

未國の新作「稀人」(マ ロ ウ ド)は俗学の折口信夫の「死者の書」に素材を得た作品だ。「死者の書」は折口の代表作の一つで「稀人」(まれびと)とは折口の概念である。それを音読みしているのがこの作品タイトルだ。折口は民俗学や神話などのイメージがあるが、その一方で歌舞伎や沖縄の琉球舞踊にも関心を持っている。幅の広いジャンルで活躍した折口だが、芸能についても深く考察をし「日本芸能史」を発表した。そしてその門下からは歌舞伎批評の戸板康二を始め芸能研究者たちを多く輩出したのだ。“芸能人”という今日では一般的な言葉を発案したのも折口でありその存在は芸能の研究の源流の1つにあたる。

この作品を振付けたのは前田新奈である。バレエダンサーとして将来を嘱望されながらも同時にコンテンポラリーダンスでの活躍する姿に注目をしているファンも多い。近年では日本舞踊の新星の藤蔭静寿と活動を共にすることもある。そんな彼らが折口の代表作に挑んだ。
朗女:平田沙織、死者:箆津弘順、謡・三絃:大久保智子
時は奈良の昔、−古の人々が登場する。主人公の藤原南家の朗女(いらつめ)は平田沙織が描いた。対する大津皇子は異形のフラメンコダンサー、箆津弘順である。大津皇子は謀反の罪を背負わされ処刑をされたのだが死に際に一目見ただけの女である耳面刀自(みみものとじ)のことを忘れられずこの世を彷徨い続けている。写経を重ねている主人公はそれを終えると皇子が葬られている當麻寺にたどり着く。そんな物語を作品にした。

歌人釈迢空としての横顔も持っている折口のテクストは音読され物語は続いていく。その日本語の響きは滑らかできれいだ。平田は古典バレエのような表現を踊って見せたかと思うと身体をよじるように止まる。彼女は近代のバレリーナのようにどこか懐かしい流麗なフレーズを踊ったかと思えば寝転んで両足を開き無作法に前を見続ける。前田新奈の振付はマイムでもなくいわゆる芝居のような演技でもなく、すっきりとダンサーとダンサーの間の関係を肉体の間の強度に変換して作舞をまとめていく。いわゆるアブストラクトでもネオクラシックではなく東洋人としての自身の感覚を精緻にみつめながら立ち上げたようなムーブメントは華美でもなく日本的でもなく邦舞と洋舞の狭間をまっすぐに直視している。主人公と強い恨みを抱いて死に同時に女を懐かしむ男の心がテクストを通じて読み上げられて行く。

平田沙織&箆津弘順
そんな二人を楽曲が包み込み自然にドラマが生まれてくる。あたかも踊り手が演じる空間と奏者が演奏する空間を分けないように舞台に広がった楽隊が音楽を奏でていく。突然、彼らは舞台を横切り棒で床をばんばんと叩きながら横切る。続いてテクノやアンビエントで使われる楽器リジュリドゥのエスニックな低音の響きを用いながらこの作品の民俗的な面白さの匂わせていく。日本的な素材を現代のポップカルチャーやテクノカルチャーの文脈へともつなげようとしているのだ。日本舞踊の創作はコンテンポラリーダンスを前にするとその作品の現代性が問われるがバレエ出身ならではの前田の感覚が面白い。

「死者の書」は素材としては日本舞踊ではこれまで何度か試みられ難しいとされる主題だがこのグループは難なくまとめてみせた。その背景には今日の音響技術や作品で用いられる多様な音楽、そしてジャンルにとらわれず視覚的に面白いステージを作り上げる彼らの姿勢が背後にあるだろう。半世紀以上も前にも日本人は新しい芸能を生みだすために邦と洋の様々な要素を用いた作品を創りだしその幾つかは時代を切り開いたのだがこのグループもそんな実に面白いテーマに踏み込んでいるのだ。この作品は創作舞踊として評価をされてもいいように思う。
第二部
『KUROKAMI★BALLET -禍-』
硬派な前半に続き後半は愉快なKUROKAMI★BALLET 「禍」が同時上演され会場は盛り上がった。ライブアーツ、コンサートからヒントを得たような作品で、視覚性と歌謡の力のある作品を生み出してきた。追求するのはこの世の始原にも通じるプリミティヴな精神や社会から抹殺されそうなアンダーグラウンドである。
深井三実
ベッドの上で高部尚子は丸くなり極度に内向的なしぐさをしてみたり身を激しくこすったり、また妖しげな人形を手にとり戯れる。まるで現代の密室にこもるオタクの様であり自閉症的で狂気を感じさせる。その背後で幕が開くと異形のパフォーマーたちが登場する。ポップでシニカルなシアターショーがスタート。可愛らしい二瓶野枝が踊っていくと舞踏家の大村未童が現れ絡んでいく。一方、前田は大きく前をにらみながら力強く動く。その合間をコミカルに演技を交えながら白井麻子が走りまわる。天からつるされた一本の長い綱で工藤丈輝が首をつっている。そのパフォーマンスの傍らで楽隊は人間の内面世界の深層やこの世の闇を歌い上げていく。ベッドの上では大村が高部に迫るが、高部は上手に男をはぐらかしていく。苦悶をする男はついに女を大きく抱えるが、紅い派手目な衣装を着た高部は時空の彼方へと消え去っていく。民謡が続きダンスシーンが描きだす物語を音楽へ昇華していく。
工藤丈輝
エネルギッシュで親しみやすい彼らの歌声はいつにもなく明るく楽しんでいるようだ。歌謡は古くは浅草オペラの大正時代から民衆のものとして生まれてきた。盆踊りや民謡がレコード文化の発達とともに社会へ広がった。中山晋平のような当時の若手作曲家とともに石井漠や藤蔭静枝、花柳寿美らといった舞踊家、そして舞踊批評家の小寺融吉たちがその流れの中で活躍をした。大正デモクラシーから日本ファシズムの台頭へ時代の中で人々は風俗や人情を描いた親しみやすいテイストを愛し歌謡運動、民謡運動といった運動まで展開をみせた。
高部尚子&工藤丈輝
二瓶野枝
前田新奈/大村未童
今日のメディア文化の中でも同じようにアーティストたち民衆の芸能は電子メディアを通じて自由に発信をしている。この舞台をコンサートと芝居や踊りの境界線としてみてみるとプログラッシヴな要素もみえてくる。すなわち今日の楽器や演奏環境をたくみに取り入れながらライブアーツの可能性を実践を通じて追求しているのだ。そしてその試みは近現代に日本人が取り組んできたテーマとも重なってきている。アーティストたちの表情に未知の表現形式を探求しているような明るいいきいきとした精神の鼓動を感じたのは私だけではないだろう。

08.11.28 吉祥寺シアター所見

舞踊批評家 吉田悠樹彦