井上バレエ団7月公演「白鳥の湖」
-関直人舞踊生活60年記念-

2006.7.23 文京シビック大ホール


2of 2

INOUE BALLET
「SWAN LAKE」

三羽の黒鳥:宮嵜万央里、鈴木直美、西川知佳子
ナポリターナ:荒井英之、田中りな
マズルカ:井上陽集、綱島郁子
チャルダッシュ:小西優、原田公司
 白鳥を踊るということは、実はかなり馬鹿馬鹿しいことだ。手をパタパタして鳥を演じるという、子どもでも真似する動きが基本だ。しかし、それがいつしか本当の白鳥のように見えてくるのが、バレエの魔力なのはいうまでもない。大学時代、北海道の湖に白鳥を見に行った。ウトナイ湖畔のユースホステルで、早朝水辺に出ると、眠る白鳥の姿が朝まだき、灰色の風景に浮かび上がり、心に焼き付いた。その姿に後に再会したのは、『白鳥の湖』だった。

そして今回の舞台で伏した白鳥たちの姿は、これまでに見た『白鳥の湖』のなかで、そのときの情景に最も近いものだった。特に白くスモークのたゆたう場面は、驚くほど幻想的で、冬の北海道のそれに似通っていた。振付・演出の力もあるだろうが、のみならずダンサーたちが高いレベルで白鳥に成り切っていたからだと思う。それを牽引していたのは、「二羽の白鳥」の鶴見未穂子、小高絵美子だった。また、第一幕では、西川知佳子、田中りな、江本択のパ・ド・トロワが印象的だった。

アレクサンダー・アントニエヴィッチ& 島田 衣子
 誰もが知るように、これは大いなる男女の処女性の物語である。妃選びという歴史物語の定番のなかに、恋を知らない王子が悪魔に姿を変えられた純潔の白鳥オデットに心を奪われ、黒鳥オディールと悪魔ロートバルトに騙されて、悪魔と戦い白鳥たちを解放するが、2人が死んで結ばれるという純粋な愛、純潔を求めて死ぬ美しさを描いている。オデット、白鳥に純潔を、オディールに悪魔性をというのはその意味で定型なのだが、それを1人のプリマが踊ることで、人間の内包するアンビヴァレンツ、両義性を示している。
アレクサンダー・アントニエヴィッチ
王妃:福沢真理江、式典長:大谷哲章
 バレエ、舞踊には両義性がつきまとう。バレエ・リュスの時代、両性具有的なニジンスキーや男装して聖セバスチャンを演じたイダ・ルビンシュタインの存在は、バレエや舞踊のもつ両義性を当時から露呈させていた。日舞や民族舞踊を見ても、異性や悪魔、神に仮装する舞踊は多い。そしてこの両義性ゆえに、僕らは仮想/仮装された白と黒、純潔、無垢、魔法で変えられた白鳥たちと、悪魔の手先である黒鳥たちの対照に酔う。だからこそ白鳥の切なさと黒鳥の見事な輝きに見とれるのだ。

 そして、純潔と悪という二項対立の結果、純潔が勝利するようにも見えるが、それは自殺、自己の消滅を伴うものであり、単純な勝利ではまったくない。むしろ男女、善悪という二項対立的思想ではなく、男のなかに女、女のなかに男を見て、純粋さに悪を、悪に純粋を見るような両義性と、白鳥と黒鳥をプリマが1人で演じる両義性は重なっているのだ。

 ところで、あの32回のグラン・フェッテはなぜ、黒鳥のためにあるのか。このグラン・パ・ド・ドゥ、もっとも大きい見せ場としてバレエ舞台の重要部分がここに置かれているのは、ある意味で奇妙なことだ。だが、テクニックの見せ場を黒鳥/悪の場面に置いているということからすれば、白鳥の場面、あるいは白鳥自体に求められるものは、バレエにおける「テクニックを超える何か」ということではないか。この作品は、物語の基本構造としては純潔、正義と愛を追求するのだが、バレエとしては、それを超えたものを求めているように思う。もちろん、まず技術は必要だ。そのために困難な場面が振り付けられた。しかしどれほど回転しようと、見事に踊ろうと、それが舞台上での死とともに、その技術を超えていく。そういうものがバレエの美、美学だということを、この『白鳥の湖』という作品の両義性は示しているのではないだろうか。
市川 透 & 島田 衣子
 この日は今回の振付家、関直人の舞踊生活60年記念ということで、最後に花束が贈られた。1946年、日本で『白鳥の湖』が小牧バレエ団によって初演された年に、関は小牧バレエ団に入ったという。今年は『白鳥の湖』がチャイコフスキーによって書かれてから140年、日本での初演から60年であり、関は日本の『白鳥の湖』の上演史と同じだけ舞踊生活を営んできたことになる。島田衣子のような輝きを育ててきたのは、このような人々の努力と持続なのだと思うと、『白鳥の湖』を含めたバレエ、ダンスの舞台を見続けたいという気持ちがさらに高まった。

舞踊批評家 しが のぶお

関直人舞踊生活60年を記念して