上田遙「ドラキュラ」~赤い血の記憶

2005.4.1&&2 東京芸術劇場 中ホール


2of 2

Dramatic Dance Theater
Dracula

コロス(黒い影の分身)
菊池いつか/桑野東萌/若生加世子
土岐貴之(霊ドラキュラ):舘形比呂一
 少女を解雇して家を立ち去らせる。それはすべてを終わりにするため。
 しかし、どこか希望を見いだす母は、少女にさよならとともに告げる。
 「いつか、あの唄を教えてちょうだい」

 母は決意をむねに、息子に秘密をうちあける。
 「あなたのおとうさまと私の父はおなじひと」
 少年は、自分の内側の闇の正体を知る。
 
 自分をつきうごかす闇の衝動。血への執着。血への憧れ…。
 苦悩する姿。

 「それほど血が欲しいなら、母の血を…」
 その言葉に、従うように母に襲いかかる貴之。
 「もう終わりにしましょう」
 母は己の体をナイフで貫き、息子を刺し殺す。
 倒れゆく母の姿が、貴之の心になにかをとりもどさせる。
 母の腕を握り抱擁する表情にはもう、闇への恐れは存在しない。

 子供のころの気持ちが蘇るのか、あるいはそもそも、失ったわけではなかったのかもしれない。一瞬、人としての心をとりもどした彼の悲しみと後悔と、愛情の入り交じった微笑み。もう、時を戻すことはできない。この悲劇の家族の物語は終わるのだ。
STAFF

演出・振付/上田 遙
台本・美術/河内連太
作曲/坂出雅海
照明/泉 次雄
衣装/宮村 泉
音響/吉野晴久
大道具製作/C-COM
舞台監督/藤本典江
プロデューサー/熊取谷春夫

企画・制作・主催
サモンプロモーション

 けれど、闇は離れた場所で、ぼんやりと二人を見下ろしている。そう、闇は消えたわけではない。
 貴之をあざわらうように、高見から二人を見下げる闇。
 彼はもうその存在を強く主張しない。なぜなら、もう己があばれなくてもそこに大きな闇があるから。

 終わらない物語。

 貴子は、ひとり生き残る。そこは、精神科の病室の一室。
 彼女の告白は、狂人のひとりごととして隔離されるのだろう。けれど、聡明な母は、理性的な精神科医であった貴子は、つぶやく。
 「世界はその隅々まで脳細胞で構成されている」
 所詮、宇宙のありようも、ひとの頭の中にくりひろげられる幻影か…。
舘形比呂一&三田和代
 1時間弱。残酷な愛の物語。
 良質の短編小説を読んだようなそんな気持ちで、出演者たちのカーテンコールを迎えた。もちろん、そのカーテンコールまでが周到に用意されていて、それも上田作品の楽しみだ。
 日本には日本の風土独特の闇の感覚があると思う。今回の作品もそんな日本の闇だ。自分の存在へのゆらぎ。それは、実はここにいる自分に繋がる父、祖父からの血脈という考え方や古い家を守るという習慣に由来し、確立しているようで確立していないもの。爵位を返上した華族の家に巣くう闇は、本来いつもそこにあったもの。自分の存在している日常は、実はとても危ういものであるのかもしれない。そんなことに頭をめぐらせた。

 この闇と対比されるように無邪気な明るい子守歌が気になった。私はその正体が知りたくて終幕後、楽屋を訪ねた。

 
「眠れるひと
 もうひととき
 安らかに

 まなこひらけばしくしくと
 癒えたはずの赤い徒花

 知らずば知らぬ済もせで
 この世はむごいことばかり。」
――河内連太、台本より引用

 舞台上には存在しなかったレクイエムともいえるその曲が美しい悲劇の物語を、現実とつないだ。

 演劇が何十分もかけた長ゼリフを使って言葉で語らせようとすることを踊りが一瞬で語る。踊りが10分かけて伝えることをひとことのセリフが伝える。今回の台詞と舞踊のコラボレーションはそんな相乗効果によってあらたな物語の可能性を感じさせるに十分な作品となって結実したと思う。

 そして、作ったパートを最終的な作品にする過程で惜しげもなく切り捨て作品をつくりあげるスタッフたちの姿に、作品の物語性の強さの正体を知り、また上田作品にのめり込める予感を感じた。

 たとえば上田作品は多くのエンターティメント・ショー作品のように形骸していない。どこか日本人としての泥臭さがあって、かっこいいんだけど胴長短足(上田先生の容姿のことではありません。念のため)…そこが魅力。それが、私を劇場へと向かわせる理由だったりする。次作も期待して待ちたい。

 最後に詩の引用を心よく許可くださった河内連太氏に感謝して…。
 To be continued the next number。

2005.4.01 池袋/東京芸術劇場 中ホールにて

いわためぐみ(編集者/ライター)

EXTRA

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三田和代